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フィリピン人の死者は100万人以上

 フィリピンは日本が植民地とする前はアメリカの植民地でした。

 1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争(米西戦争)は、12月のパリ講和条約の締結で、当時スペインの植民地であったフィリピンの領有権が約2000万ドルでアメリカに譲渡されていたのです。

 その後、1941年12月、日本が真珠湾攻撃直後にフィリピンへの攻撃を開始。

 日本の目的は資源の獲得であり、特にインドネシアなどは資源が豊富でした。フィリピンには重要な資源が少なかったのですが、東南アジアへの中継地として必要だったようです。

 攻撃開始翌年の1942年1月に日本はマニラを占領。3月にはフィリピンの司令官であったアメリカ軍のマッカーサー大将がオーストラリアに脱出し、脱出先のオーストラリアで「私は必ず帰る I shall return」という有名な言葉を発しています。

 同年5月、その後任の司令官であったウェインライト中将が降伏して日本の植民地支配が始まりました。

 そして2年後の1944年10月にアメリカ軍が奪回を目指してフィリピンに侵攻。

 日米共に艦艇と航空機を総動員して膨大な数の兵器が投入されている事から、史上最大の海戦と称されるレイテ沖海戦や、陸上戦闘となったレイテ島の戦い、マニラ市街戦などの激しい戦闘を経て、1945年9月、山下奉文大将がマッカーサー元帥と共にバギオで降伏文書調印式に参加して降伏文書に署名し、日本の植民地支配が終了しました。

 この3年9カ月の間に日本軍兵士の死者は約50万人で東南アジア戦線で最大の犠牲でしたが、フィリピン人はその倍の100万人以上が亡くなられたそうです。

 私たち日本人はこの歴史を忘れてはいけません。また、フィリピンに住んでいる私などは、このことを知らない日本人にきちんと伝えていかなければならないと思っています。

セブ市内にある戦跡

 セブ市内には以下のような戦跡があります。

●サンペドロ要塞(Fort San Pedro)と慰霊碑
 この要塞は、セブ市役所や港に近い、セブの下町にあります。
 フィリピンがスペインの植民地時代にその拠点として1565年に建設が開始され、当時は木でした。現在残っている石造りの要塞は1738年に敵対するイスラム勢力からの攻撃に備えて建設されたものです。アメリカの植民地時代には兵舎として、日本の植民地時代には捕虜収容所として使われていました。
 また、要塞に隣接している公園の「プラザ・インデペンデンス(Plaza Independencia)」の一角に、日本軍の慰霊碑があります。

●南方第14陸軍病院関係者の慰霊碑
 セブ市内の中心地、オスメニアサークルそばにあるヴィセンテ・ソット記念医療センター(Vicente Sotto memorial medical center:旧サザンアイランド病院)の敷地内にあります。
 ここにはかつて大日本帝国陸軍病院がありました。
 この病院は「赤十字マーク」を掲げていたにも関わらず、米軍の空爆により、多くの医療従事者、負傷兵が犠牲になっています。
 なお、「赤十字マーク」は、戦争や紛争などで傷ついた人々と、その人たちを救護する軍の衛生部隊や赤十字の救護員・施設等を保護するためのマークで、紛争地域等で「赤十字マーク」を掲げている病院や救護員などには、絶対に攻撃を加えてはならないと国際法や国内法で厳格に定められています。
 なお、病院関係者のほとんどは慰霊碑(Memorial Monument)の存在を知りませんが、入り口の守衛に「慰霊碑を訪れる」旨を伝えると、病院敷地に入れてもらえます。

●セブ観音
 場所はマルコポーロプラザホテルの駐車場の奥で、第二次世界大戦でセブ島やその周辺地域で戦死された方々のご冥福と永遠の平和を祈念して建立されました。
 毎年、日本の終戦記念日に合わせて「セブ観音戦没者慰霊祭」が行われています。

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