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フィリピン観光

日本もフィリピンもポルトガル人がヨーロッパ人で初上陸

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マゼランは世界一周の途上でフィリピンに上陸して戦死

 フィリピンに来たマゼランは、大航海時代を代表する航海者の1人です。

 大航海時代とは、15世紀半ばから17世紀半ばで続き、ヨーロッパ人がアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代で、その中心はスペインとポルトガルでした。

 ポルトガルは南のアフリカ西海岸進出を始めて、東回りのインド航路開拓に成功。
 一方、対抗していたスペインは、西に進出して、アメリカ新大陸を発見、その後、西回りで世界一周し、大航海時代はピークに達したといわれています。

 この西回りで世界一周したのがマゼランとその一行で、その途上、ヨーロッパ人としては初めてフィリピンに上陸しています。

 マゼランはポルトガル人で、ポルトガルにいたときには東回りでインドなどに行っていました。ところが、理由は定かではありませんが、ポルトガル王の不興をかって失意のうちにポルトガルを去りました。そして、ポルトガルのライバルであったスペインに未知の航路に挑む計画を提案しました。

 当時のスペイン王・カルロス1世はこれを承認し、1919年の8月にスペインのセビリアを出発、フィリピン諸島に到達したのが1921年の3月です。

 マゼランは4月にセブ島に上陸し、セブ王フマボンは妃とともにカトリックの洗礼を受けました。また、付近の首長たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求しました。

 ほとんどの首長はセブ王の命令に従ったが、マクタン島の二人の領主のうちの一方であるラプラプがただ1人命令を拒絶しました。

 そこでセブ王はマゼランにラプラプを討伐するよう依頼。

 マゼランは自らわずか60名の連れて出かけ、ラプラプは1,500名ほどを率い、4月27日に戦闘が開始されました。銃などを装備していたマゼランの兵士たちでしたが、多勢に無勢でマゼランは戦死し、残った兵士は命からがらセブ島に逃げ帰りました。

 なお、生き残ったスペイン人たちの多くは、その後セブ王に宴席に招かれて毒殺されています。セブ王の裏切りを受けて、マゼランの跡を継いだフアン・セバスティアン・エルカーノはフィリピン諸島を脱出。その後エルカーノらは1522年9月にスペインに帰国し、史上初の世界一周航海を成し遂げました。

 それからもスペインはフィリピンの征服を目指して艦隊を何度か派遣しましたが、その中で1542年の遠征隊が、この地を時の皇太子(カルロス1世の子、後のフェリペ2世)の名にちなみ、フィリピンと名付けています。ただし、この段階でスペイン領となったわけではありません。

 その後、スペインは1564年にレガスピを艦隊司令官兼総督に任命し、フィリピンの領有を宣言していますが、スペインの支配は、アメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争(米西戦争)のパリ講和条約でアメリカに領有権が譲渡される1898年まで続きました。

 なお、フィリピン史で「333年のスペイン支配」といいますが、これは1565年にレガスピがセブ島に到着した時から起算しています。

日本に初上陸したポルトガル人は中国人が連れてきた

 日本にヨーロッパ人(日本では南蛮人と表現)が最初に上陸したのは、1543年の「鉄砲伝来」の時でした。

 この年の8月25日に、日本で当時、最南端の地域の一つであった鹿児島県種子島に大きな中国船が漂着。種子島の人が中国人の乗組員に筆談で事情を聞いたところ、南蛮商人(この場合はポルトガル人)の3人が当時の日本にはなかった「鉄砲」という武器を持っていたのです。

 私はてっきりヨーロッパから、はるばる船で来たのかと思っていましたが、どうやら違っていたようです。

 種子島の領主・種子島時堯(ときたか)はこの南蛮商人から鉄砲を二挺購入し、その製造法を調べて国産の鉄砲を製造に成功、その後は「種子島銃」として日本に広まりました。

 ちなみに「キリスト教伝来」は、その6年後で、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本で布教を始めています。

 フィリピンにポルトガル人のマゼランが上陸したのが1521年で、中国人が連れてきたポルトガル人が日本に上陸したのは1543年。同じ島国でもヨーロッパ人が上陸したのは日本の方が遅かったのです。

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